寓話 「ロバと親子」

町にある市場でロバを売るため、親子とロバが田舎道を歩いていた。
すると、道ばたで井戸水を汲んでいた女の子たちがそれを見て言った。
「なんて馬鹿な人たちでしょう。どっちか一人がロバに乗ればいいのにさあ。
二人ともほこりをかぶってとぼとぼ歩いているのに、ロバはあんなに気楽に歩いているわ」。
親父さんはその通りだと思い、息子をロバの背中に乗せた。

しばらく行くと、老人たちがたき火をしているところに来た。老人の一人がこう言った。
「今時の若い者は年寄りを大切にしない。ごらんよ、年をとった親父さんが疲れた様子で歩いているのに、あの子はロバに乗って平気な様子でじゃないか」。親父さんはこれを聞いて「それもそうだな」と思った。そして、息子を下して、自分がロバに乗った。

しばらく行くと、子どもを抱いた三人の女たちに会った。一人の女がこう言った。
「まったく恥ずかしいことだよ。子どもがあんなに疲れた様子なのに、どうして歩かせておけるんだよ。自分は王様みたいにロバに乗ってさ」。
そこで親父さんは、息子を鞍の上に引き上げて自分の前に乗せた。

しばらく行くと、数人の若者たちに出くわした。
一人の若者がこう言った。「君たちはどうかしてるんじゃないか。その小さなロバに二人が乗るなんていうのは無慈悲だよ。動物虐待と言われても仕方がない」。その通りだと思った二人は、ロバから下りた。そして、親父さんは言った。
「こうなったら、二人でロバをかついで行くしかない」二人はロバの後ろ足と前足をそれぞれ綱で縛って、道ばたにあった丈夫そうな棒をその間に通した。子どもが片方の棒を、親父さんが棒のもう片方を持って、えんやえんやとかついで歩いて行った。町の人たちはこの様子を見て、てをたたいて笑った。

【嫌われることは自由の証】

この寓話の教訓は「全ての人に好かれることはできない」ということである。
どうしてそういうことが言えるのか。
世の中にはいろんな人がいる。
その人はその人の立場でものを言う。

この寓話では、女の子の立場、老人の立場、三人の女の立場、若者の立場など、それぞれがそれぞれの立場で親子に自分の思いをぶつけている。
もちろん、それぞれの助言に一理あることは認めよう。しかし、一理あるにすぎないのである。

もう少し、別の角度から考えてみる。
「全ての人に好かれることはできない」という教訓は、「誰かに嫌われることを恐れてはいけない」という教訓に変換できる。
内股膏薬という四文字熟語を思い出す。
内股に貼った膏薬が右側についたり左側についたりすることから、しっかりした意見や主張がなくて都合次第で立場を変えること、または、そのような人物やあてにできない人物のことを言う。
この親子はまさにそういう状態に陥っている。
組織の中で仕事をしていると、こういう内股膏薬状態に陥ってしまうことも少なくない。

大げさにいえば、この親子は「人間としての自由」を放棄している。自分のことを嫌う人がいるということは、自分が自由に生きるための代償であり、自分が自由に生きていることの証拠である。他者に嫌われても構わないと思うこと、
他者の評価を気にしないことが、自由に生きるための出発点になる。

「全ての人に好かれることはできない」という格言から連想するのは、「全てを手に入れることはできない」という格言である。

「結婚はせず、こどももいない。振り返れば捨ててきたことも多く、好きなことを追い続けた自分を『卑怯だったかな』と思う時もありますが、
『全てを手に入れることはできない』と悟っています」 by  戸田奈津子

こんなことを言う人もいる。選ぶとは、何かを選んで、何かを捨てることだ。両方を選ぼうとして、どちらも失ってしまうことがしばしばある。
なるほど、それはそれで一つの考え方である。
しかし、どれか一つを選ぶなんてできない、全て欲しいと思うのが人情である。たとえば、仕事と家庭と趣味をどう両立させていくかを考える時、
どれか一つをとれと言われても困るし、できれば全てを欲しいと思うのではないか。そういうときにはどういう実用的な助言が可能だろうか。

一つは、全てを手に入れるのは同時でなくてもいいということ。「全てを手に入れる」という目標を「長い時間軸で追う」ということだ。

もう一つは、完全なものを手に入れることを望まないことだ。少しだけ雑になること。良い意味で適当になること、そしてほどほどのところで満足することだ。この二つの法則を守れば、全てを手に入れることも不可能ではない。


人間は他人の目を気にしてばかりで、結局は、他人の人生の中で生きてしまうことになる。

寓話の最後、完全なものを手に入れようと思わず、少し雑に、いい意味適当に、ほどほどのところで満足する。これに限る!!