寓話 閻魔王の七人の使者

ここは地獄の閻魔王庁である。
閻魔王は「浄玻璃の鏡」をみながら男にこう言った。
「なんだ、お前は。悪いことばかりして、ちっとも善いことをしていないではないか。
これじゃ、地獄行きだな」
「すみません。急だったもので、善業を積む暇がなかったんです」男は弁解した。
「急に死んだと言うが、お前は何歳じゃ?」
「六十七歳です」
「六十七歳か。六十七歳なら、わしが送った七人の使者を見たであろう」
「七人の使者と言いますと・・・・・そんな方はみかけませんでした」

閻魔王はこう言った。
「一つは目だ。かつてはどんなものでもはっきりと見えた。しかし、最近ではどうだ・・・よく見えまい。
二つ目は耳だ。
昔はささやき声でも聞き取れたというのに、この頃は角笛さえも聞こえまい。
三つ目は歯だ。
若いころは石さえかみ砕けるほど頑丈だったのに、今はほとんど残っていないではないか。
四つ目は髪だ。
子どもの頃はカラスのようにまっ黒だった髪の毛も、すっかり抜けて禿げあがり、
わずかに残る髪も白く変わってしまっただろうが。
五つ目は背筋だ。
若い頃はナツメヤシの木のようにピンと張っていた背筋も、今では弓のように曲がってしまったではないか。
六つ目は足だ。
かつては二本の足でしっかり踏ん張っていたが、今や足元もおぼつかない。
杖がなくては、ふらついてしまって歩けないだろうが。
七つ目は食欲だ。
昔は口にするものすべてがうまかったのに、この頃は、どんなものも口に合うまい。
さあ、七人の使者を説明したぞ。何か言うことが有るかね?みんな、お前とともにいるではないか」男は何も言えなかった。
「使者の警告を無視してお前は何の準備もしてこなかった。今更後悔してももう遅い。お前は地獄行きだ」
注)【浄玻璃の鏡】閻魔王がいる庁舎にあり、死者の生前の善悪の行為を映し出すという鏡。

『今日が人生最後の日なら、あなたはどう生きる?』

平均余命という指数がある。
ある年齢の者が平均するとあと何年生きられるかを示した数である。
例えば、ここに五十五歳の男性がいるとする。
「平成二七年簡易生命表」によれば、
五五歳の男性の平均余命はおよそ二八年(女性はおよそ三三年)この数字はどういうことを意味するのか。

誰もがあと二八年生きられるということではない。あくまでも平均値であるから、五六歳で亡くなる人もいれば、一〇〇歳まで生きる人もいる。
この寓話の登場人物は六七歳の男性である。
当然、自分の順番はまだ先だろうと高をくくっていた。ところが、気付いたら、地獄の閻魔王庁にいたのである。

この寓話では「あの世」には極楽と地獄があって、生前に善業を積んだ人は極楽行けるが、
悪行をしてきた人は地獄に行くという設定になっている。どちらにいくのかを判断するのは閻魔王である。悪行しかしてこなかった人はいうまでもなく、これまで何ら善業らしきことをしてこなかった人であっても、
年齢を重ねて死期が近づいてきたらなるべく早いうちから善業を積みましょう・・・・・
そういう教えを諭す話である。

人間は必ず死ぬ。
いつ死ぬかは分からなくても、必ずいつか死ぬ。
大人であればみんなそういうことは知っている。
その一方で、自分だけは当分の間、死なないだろう・・・そう思いながらみんな生きている。
こういう感覚は、若者だけに限らない。
「当分、自分は死なないだろう」と高をくくって生きているよりも「今日が人生最後の日かもしれない」 と思って生きた方が賢明である。その方が、今日一日の質が高まるからだ。

家族と食事をする、商店街を歩く、寿司を食べる、酒を飲む、コーヒーを飲む、ケーキを食べる、テニスをする、プールで泳ぐ、風呂に入る、桜を見る、デートをする、海を見る、電車に乗る・・・・・
どれもこれも「これで最後か」と思えば感慨もひとしおである。

自分の死を意識するとはどういうことか。
四六時中「すべての人間は死ぬ。私は人間である。ゆえに私は死ぬ」という三段論法を反芻して、くよくよ生きることではない。
「今日が最後の日かもしれない」という言葉を心の底にしまいつつも、時々はそれを取り出しながら快活に生きていくことではないか。

最後に、仏教の開祖である釈迦はきっとこの話に異議を唱えるであろう。
というのも、釈迦にとってはこの人生こそが苦であり(一切皆苦)、地獄とはこの世に何度も何度もさまざまな境遇で生まれてくる「輪廻」そのものだからだ。つまり、地獄は「この世」そのものであり、「輪廻」から脱出していける極楽だけが「あの世」というわけだ。

「極楽」
「地獄」
「あの世」
いずれは必ずそこに行くことになる。
私も、平均余命から逆算すると残された時間はあと二五年。
残された二十五年を、小さな善を積重ね毎日一生懸命に生きるしかない。

人間は、生まれてくるときには苦しくて泣きながら生まれてくる。
不安で不安で大きな声で泣くしかなく・・・。
でも、それを見ているまわりの人はみんな笑顔で見ている。「かわいい」とか「げんきだね」とかいいながら・・・

逆に死ぬ時は、ベットの上で息を引きとる瞬間、泣いてくれてるまわりの人を見て
「自分はこの人たちにとって少しでも役に立つこと出来たんだな」って、笑顔で逝けたらいいな、そのように思う。この年齢になると、ふとこんなことも考えてしまう。
寓話を読んで感じたことでした。